2005/12/07

タダ見のドラマで考える

先週土曜日の山田太一ドラマ「終わりに見た街」。
土曜ワイド劇場の枠なんて観たのは何十年ぶりだったが、平成17年から昭和19年にタイムスリップという設定に惹かれて観てみたらば、すばらしいバッドエンド。

ようするに現代人を入り込ませることによって、戦争の犠牲になっているはずの大衆が狂気的な戦争ムードにある異常さをより鮮明に浮き立たせ、反戦メッセージを伝えようってなドラマだな?と思いながら、いちいち生意気なつっこみをしつつ(たとえば将校役の柳葉敏郎が平成からタイムスリップしてきた不審な一軒家に向かって、隊に一斉射撃を行わせる場面で「昭和19年ったらもうこんな弾の無駄遣いはできなかったはずで」とかね。あー知ったか。やだやだ)観ていたら、中井貴一率いる平成家族が食うのに困ったあげく、戦下の東京の暮らしに無理矢理なじむことにしたあたりから、どんどん引き込まれてしまった。素直に、自分だったら…と置き換えてみたりした。その時代にいるはずのない人間がそこで生活をしていくなら必ず行き当たる、戸籍という問題にちゃんと時間を割いていたからかもしれない。

それでも勝手に途中途中に伏線を見いだして生温かいラストを予想していたのに、ラスト直前でそれらが全部ぶっ壊されて、えー、どうすんのーと思ってたら、観てる側の者まで巻き込んだ(意味として)救いのないエンディング。ちょっと説教くささも感じるが、面白かった。

特別出演陣も柄本明、津川雅彦、小林桂樹、遠藤憲一など豪華だ。

ラストからしてこれは絶対に反戦ドラマなんだと思うが、どうもいまだにわからないところがある。
中井家族とは別個にタイムスリップしたのち一家と生活をともにする、中井の親友の柳沢慎吾親子がいるのだが、この息子の意味だ。
彼は平和な現代に多い無気力無関心な15歳の少年という立場で、登校拒否のひきこもり、ふてぶてしく礼儀も知らず、なにもかもにウンザリしている様子を人に見せつけるイヤな子どもだ。
タイムスリップしてのちも同じ調子だったが、ふた家族がひとつの家に落ち着いてしばらくして突然出て行き、終盤になってひょっこり戻ってくる。以前とは打って変わって、いずまいを正し膝をついて父親に心配をかけたことを詫びながら、軍需工場で働いていたこと、そこでは国を想う気持ちがあれば氏素性を問わず誰でも雇ってくれる、がんばれば正当に評価されることを、まるで一兵士のように慇懃に申し述べるので、父親をはじめ皆は圧倒されるのである(このギャップを際立たせるため少年役の窪塚弟はこれ以前のシーンには一言も台詞がない)。
その前のエピソードとして、中井柳沢は間もなく起こる東京大空襲を、対象となる地域の家々に知らせるために、勤めを休んでビラを配ったが虚しくも空振りとなりそうであった。それを少年は「皆国のために戦っているのにあなたがたはなんですか」と揶揄するのである。すると中井の長女までもが「お父さんたちは口をそろえて『こんな戦争、ばかげた戦争』という。みんな命を賭けているのに」と同調する。
これはつまり、なんとなく生きていただけの若い世代だからこそ、簡単に洗脳されたのだと見ていいのか。
それとも戦時の日本にアイデンティティを見いだし、他のために犠牲になる精神を養われたということなのか。パッと見、前者のようだが、オロオロと諭そうとする大人たちを毅然とはね返した「わたしたちはいまを生きてるのよ」という子どもたちの台詞には後者を感じる。
としてもそれを是としているようにも見えず、近頃の風潮を踏まえてか、むしろ危険だとでも言いたげではあったのだが。いったいどういう意図でこのシーンからラストへの流れになるのだろうか。

う〜ん。生命が危うい状態に置かれないと生きる意味がわからないというのも情けないがなあ。なんとなくそれもわかるし、人間って誇りがあるとないとでずいぶん違うんだなあとか、色々考えさせられてしまった。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home