2011/04/14

なんでもない日に突然すべてが終わるかもしれない恐怖

山岸凉子に「パエトーン」というチェルノブイリ事故のあとに描かれた作品があって、太陽神ヘリオスと人間との間に生まれた息子パエトーンが、自分は神の子であると仲間に証明したいために、ヘリオスに証しとなるものを与えてほしいと願い出、これを飲んだヘリオスにパエトーンは太陽神が所有する炎の馬車を貸してくれるよう頼み、一度した誓いは決して破れないという神の掟によりやむを得ずヘリオスは馬車を貸してやるのだが、すべての神々の中でも太陽神のみが操ることができる炎の馬車はパエトーンでは当然手にあまり、走り出すやいなや大暴走、大地を焼き尽くしていくありさまに、このままでは万物が滅びると天空神ゼウスが雷を落としパエトーンもろとも炎の馬車を破壊する、というギリシア神話をオープニングに据え、思い上がった人間が神の領分を侵し強烈なしっぺ返しを食らうという教訓をもとにし、核をエネルギーに用いる危険性を説いた、当時としても珍しい反原発マンガなのだが、アタイはこれを読んでいたのですっかり反原発派であった。が、このたびの事故で改めて思うに。
そんな危険極まりないものを貸したのは神様で、一度した誓いは破れないとか神話特有のあとづけルールじゃ納得できんものがある。

危険なウランが地球に存在する意味を「パエトーン」では宇宙に地球が誕生するときのビッグバンに必要だったものと位置付けているが、ホントにそれだけだろうか。他に可能性はないだろうか。
自然界に無駄なものは何もないと思うのは、性善説を信じるように天然の悪はあり得ないと信じたい人間の思い込みではないのだろうか。
自然が、万物の意思が、悪意に満ちたパンドラの箱をそっと地中に隠しておき成り行きに任せるという、ゆるいブービートラップを仕掛けてここまで来たとしたら?
神話のように箱の中に最後に残る「希望」は誰にとっての?自然の?地球の?宇宙の?

などということをぼんやり考えるアタイは最近よくSFを読んでます。貴志祐介の「新世界より」、噂に違わず面白い。

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